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浅川巧が生きた時代

高麗時代(918-1392)に出現した白磁は、朝鮮王朝時代(1392-1910)に入って完成した。中国文化の影響を強く受けた高麗王朝に対して、朝鮮王朝は民族独自の文字ハングルを作り、文化的にも独自の気風を作り出そうとした。陶磁器においても、高麗王朝が青磁を主流にしたのに対して朝鮮王朝では白磁が主流になった。高麗青磁に代表される端正で厳しさをたたえた作風に対して、朝鮮王朝時代には重量感のある自由でおおらかな陶磁器が作り出された。さらに白磁が宮廷の什器として用いられ、その生産は厳しく監督された。一方、民間では粉青沙器という白釉陶が発達した。だが19世紀に入ると、国力の衰退にともなって各地の窯も多くが閉じられていった。浅川伯教は、白磁と出会ったときの感動を「肌の美しさはその暖かさをさへ想像させる」「自然の呼吸をさへ聞く事が出来る」と絶賛し、当時かえりみられることが少なかった白磁を安価で買い集めていった。伯教は、1914年にロダンの彫刻を見せてもらうために初めて柳宗悦(1889-1961)を千葉県我孫子の自宅に訪れた際、「青花草花文面取壺」と後に命名される白磁を手土産に持参した。柳はこの壺をきっかけに朝鮮陶磁(柳達は李朝陶磁と呼んだ)に心を惹かれるようになったのだ。そして、浅川兄弟と共に、1924年に朝鮮民族美術館を開館。名もない民衆の手による工芸品を収集したこの美術館の発想は、そのまま柳が推進した民芸運動に繋がっている。民芸運動とは、日常的な暮らしの中で使われてきた手仕事の日用品すなわち民衆的な工芸品の美を発掘して活用する動きだが、巧もまた「正しき工芸品は親切な使用者の手によって次第にその特質の美を発揮するもので、使用者は或意味での仕上工とも言ひ得る」と記していた。柳は、巧の死に際して「私とは長い間の交友である。彼がゐなかったら朝鮮に対する私の仕事は其半をも成し得なかったであらう。朝鮮民族美術館は彼の努力に負ふ所が甚大である。そこに蔵される幾多の品物は彼の蒐集にかゝる。(中略)
彼位ゐ私の無い人は珍しい。彼程自分を棄てる事の出来る人は世に多くはない。彼の補助で勉強した朝鮮人は些少ではない。私は彼の行為からどんなに多くを教はった事か。私は私の友達の一人に彼を有った事を名誉に感じる」と書いた。
柳は1936年に東京の駒場に日本民藝館を開館させた。戦後、日本に引き揚げてきた浅川巧の娘・園絵(1917-76)は日本民藝館で柳の右腕となり、1958年初版の『民藝四十年』の編集にも携わった。

史実に基づく物語 6月9日(土)新宿バルト9、有楽町スバル座他にて全国ロードショー