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浅川巧が生きた時代

浅川巧は1891(明治24)年1月15日、八ヶ岳の南麓、山梨県北巨摩郡甲村(現・北杜市高根町)に生まれた。農業兼紺屋(染物屋)に従事していた父はその半年前に31歳で病死。山梨県立農林学校を卒業後、秋田県大館の営林署で4年間働いた巧は、1914(大正3)年母と兄一家を追って朝鮮半島に渡る。兄の伯教(1884-1964)はその前年に尋常小学校教師として京城に渡り、白磁と出会っていた。熱心なキリスト教徒であり、また雑誌『白樺』の愛読者でもあった兄は、ロダンに憧れて彫刻家を志し、1920(大正9)年には朝鮮人像「木履の人」で帝選に入選するなど、多才な人だった。その彼が生涯をかけて取り組んだのが、朝鮮陶磁の研究だ。一方、巧は子供の頃から自然をこよなく愛し、秋田から故郷の友人に送った手紙にも「僕は何時でも到る処で山野や木や草や水や虫やを友として終りたい」と綴るほどだった。彼もまた兄の影響もあって朝鮮の工芸研究に没頭した。その成果は、著書『朝鮮の膳』『朝鮮陶磁名考』の2冊にまとめられた。
巧の幼少期、日本は日清・日露戦争(1894-95、1904-05)を戦い、日露戦争勝利の見通しがつくと朝鮮王朝(当時の国号は大韓帝国)を保護国とすることを決定、1910年に併合を断行した。これにより、1392年から続いてきた朝鮮王朝(李氏朝鮮)は滅亡。日本は植民地統治機関として朝鮮総督府を置き、初代総督・寺内正毅は朝鮮人の民族意識を軍の力で押さえつける「武断政治」をおこなった。巧が朝鮮に住み始めて5年後の1919 年に三・一独立運動がおこり、以後「文化政治」となるが、支配の軍事的性格が根本から改められることはなかった。
在朝日本人の数は、1905年の約4万人が翌年には約8 万人と倍になり、1910年には約17万人、1930年には約53万人、1942年には約75万人になっていた。

史実に基づく物語 6月9日(土)新宿バルト9、有楽町スバル座他にて全国ロードショー